ハリケンジャーではハリケンレッドとして活躍、パッチギでは井筒監督の度重なる厳しい指導にもひるむことなく受け止め、俳優として成長を見せた塩谷瞬さん。そんな塩谷瞬さんのサクセスストーリーは決して順風満帆といえるものではなく、むしろ逆境の連続から常に這い上がるバイタリティーにあふれた人物。
今回は塩谷瞬さんの始まりから今に至るまでの物語をまとめましたので、ご紹介していきます。
塩谷瞬さんは石川県出身
塩谷瞬さんは1982年6月7日生まれ、現在40歳で石川県金沢市の出身です。幼い時に既に母親はおらず、母親の顔を覚えてない状況。塩谷瞬さんは父親との2人暮らしとなりますが、その父親は留守がちで机の上には1,000円札だけ。しかし、当時兄弟もいなかった塩谷瞬さんにとって生きるすべを全く教えてもらえない状況だと、1,000円札でたくさんのお菓子を購入するようなことに。
結果的に満足に食事をとることもできなければ小学校に通うこともできず、段々と衰弱してついには栄養失調に。スーパーマーケットなどで貧血を起こして倒れた際、警備員のおじさんが牛乳などを飲ませてくれたことで何とか生き永らえることができました。
そんな生活も父親が再婚したことで一気に好転し、小学校に通うなど普通の小学生になったものの、中学時代に再び父親が独り身となったことで、以前のような殺伐した状態に。14歳からバーで働くという、にわかには信じがたい経歴は生きるためにはどうしても必要なものだったと言えます。
この時期、塩谷瞬さんは、たまたま見た映画でロバート・デニーロが好演する様子を見て自分も俳優になりたい、今までの境遇を演技にぶつけたいという気持ちに駆られ、1999年当時の彼女が応募した超ビッグオーディションでナムコ特別賞を獲得。初回のグランプリは妻夫木聡さんと大物を輩出したオーディションで塩谷瞬さんは俳優としての足掛かりをつかみます。
塩谷瞬さんが出演するハリケンジャーとパッチギ
オーディションで賞を取り、今までの人生をガラッと変えるためにも俳優に集中しようと上京。芸能事務所をいくつも回って、最終的にスターダストプロモーションにたどり着き、採用されます。ヘアカタログのモデルなど塩谷瞬さんからすれば不本意な仕事で、自分がやりたい俳優の仕事はなかなか舞い込みませんでした。
そんな中、2002年にスーパー戦隊シリーズの忍風戦隊ハリケンジャーのハリケンレッドに抜擢されます。1年間ハリケンレッドを演じきり、苦手にしていた高所でのアクションなどを必死にこなし、塩谷瞬さんが待ち望んでいた役者の仕事、CMや映画、舞台なども舞い込んできて、塩谷瞬さんの人気が一気に高まります。
そして、2004年、井筒和幸監督に抜擢される形で映画パッチギの主演に。厳しい叱咤激励の中で必死に食らいつき、パッチギは高い評価を集め、日本アカデミー賞の新人俳優賞などを獲得。その後も映画になくてはならない存在として多くの映画に出演を果たすなど、一流俳優としての階段を上っていきます。
この時期にはアメリカへの武者修行、個人事務所の立ち上げ、のちにライフワークとなる海外への旅など精力的に活動し、役者としての幅をどんどん広げていきます。
ピンチをチャンスに変える塩谷瞬
俳優になってから塩谷瞬さんはあまり逆境らしい逆境はありませんでしたが、最大のピンチが訪れます。それは重度の網膜剥離になってしまったこと。眼科に行った時点で網膜はほとんど剥がれているような状態で失明してもおかしくない状況。塩谷瞬さんは運よくそのギリギリで発見され、症状は快方に。その中で、執刀医を務めた先生がネパールに医療支援を行っており、ネパールの今を見てほしいという誘いに乗り、ネパールへ。
その後ネパールに何度か足を運び、2014年にはネパール親善大使を務めることに。ボランティア活動にも積極的に取り組み、東日本大震災で被災した東北各県、熊本地震で被災したエリアでのボランティア、そして、親善大使になったネパールでの地震のボランティアなど。網膜剥離から始まった取り組みは、結果的に塩谷瞬さんのボランティア精神をより高めることにつながっていきます。
現在は主演映画の上映がいくつも控えるなど、俳優としてさらなる円熟味を増す時期を迎えています。壮絶な体験を幾度も繰り返し、その都度成長を続けてきた塩谷瞬さん。その波乱万丈な物語は役者にとってはプラスでしかなく、役の幅にもつながるはず。テレビドラマなどへの出演も期待されるなど、ますます目が離せません。


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